書道のボランティア石田博子さん

初めてお会いしたのは、ヨコタホーム5階、デイサービスの書道ボランティアをしているところ。
インタビューで質問する前に、すぐにことばが出てきて答えになった。

「ボランティアは楽しくやっている。だから疲れない」だった。



 生徒さんの書いたものを赤く修正し丸を付ける。
「生徒さんが一生懸命書いたものだから、最後の丸を付けるまでは私も手を抜かない。」

  

「心から充足感がある。皆明るくて、気分がいい」と話した。


昭和9年生まれ、現在81歳。生まれは東京、4歳の時、静岡県静岡市に転居してきた。


70年前の戦争末期、静岡市はB-29 による空襲を受けた。その時石田博子さんは6年生だった。

 親から4年生の妹を連れて宝台院の防空壕へ避難するように言われ、
通信簿、少量の米、大学ノートの入ったリュックサックを背負ってそこへ行った。

 しかし防空壕は人が満杯で入れなかった。
少し立ち止まった後、とっさの判断で、妹の手を引いて安倍川の方へ逃げた。

 駿河大橋の近くの土手まで約3キロメートルあった。

 シューという音をたてて焼夷弾がいっぱい降って来るのを感じた。
B-29 の飛行ルートと風の向きから、幼いながら考えたのだと思うが、飛行機の飛んで来る方向へ逃げた。

 その晩は焼夷弾を避けながら行ったり、来たりしてうろついた。
周りに人は誰もいなかった。


翌朝、家に向かって歩いた。帰る途中亡くなった人達の上にトタンがかぶせてあった。

 昨日隠れようとしていた防空壕は焼夷弾が直撃し、そこに隠れていた人たちは皆犠牲になった。

 防空壕に入れなかったことが幸いした。子供心に何という運命なのだろうと不思議に思った。

 周りは焼け野原。家に着いたが、自分の家も燃えてなくなっていた。

心配したが、幸いなことに間もなく父、母に再会することができた。

それから
母のいとこを頼って静岡から青梅に引っ越してきた。
私は青梅第一小学校に編入した。

その後、受験して東京都立第九高等女学校に入学した。

1948年の学制改革により高等女学校の部分が女子新制高等学校と改称された。
それから2年後の1950年、高校2年生の時に
東京都立多摩高等学校と名前が変わり、さらに男女共学が開始された。

卒業後1819歳のころ青梅の眼科医で事務員として働いた。
その頃、茶道、華道、和文タイプ、長唄、ピアノといろいろと習った。
その中でもお琴(正式には筝曲)には特に興味をもち、
やさしく教えてくれる先生では満足できず、先生を3人くらい替えた。

その後、横田基地の電話局で電電公社(日本電信電話公社、
現在のNTTグループの前身)の募集があり応募、
横田特別電話局事務員として働くことになった。

昭和
29年のこの時、初任給基本給は6,700円だった。
電話スイッチボードの前に交代勤務でオペレーターが3人ほど働いていた。
昭和
30年に家族で福生に引っ越してきた。
横田特別電話局から立川にあるNTTに転勤、NTTにはトータルで11年間勤めた。

立川に転勤後、下北沢に納得できる筝曲の厳しい先生に出会い、
週2回、仕事を終えてから、電車で通い、けいこに励んだ。
帰りは夜11時半くらいだった。
昭和
363月、何年もの厳しい訓練を経て、
芸道で一定の技芸に達したものが家元(師匠)から芸名をゆるされる名取になった。

NTT同僚からの会社の広い休憩室で、
生徒を集めるから琴を教えてほしいという話が舞い上がり、
募集したところおよそ20人の応募があった。
NTTでは交代制・時差勤務であったので、
その時間差を利用して毎週土曜日の1時から6時まで
4面の琴を持って教えることになった。
給料をもらいながら、お礼もいただくようになり、だんだんと気が重くなって、
いっそのこと独立しようと、仕事を辞めることを決意し、退職した。


心機一転、牛浜駅近く畳一畳もある大きな看板を出して生徒を募集した。


 山田流
 筝曲教授
  石田博井 


以来ずっと弟子をかかえ教えてきている。名取になった人は十人を超える。
看板のあった場所には現在、西武信用金庫の建物が建っている。


50代になった頃、若いころから得意だったこともあり、書道を教えることを思いついた。
資格が必要だと思い、書道を習った。
六段までの資格を得てから、家で小学生に書道を教え始めた。

それから先は独学で師範の資格を取り、たくさんの弟子の中から4人の師範を育てた。

習字を習いに来ていた子供達の中にヨコタホーム施設長の娘さんたちがいたことから、
現在ヨコタホームのデイサービスで習字を教えている。




 石田さんにお話しを聞いていると次の言葉を実感する。

「二十歳、八十歳であろうと、学ぶことを止めた人は老人だ。学び続ける人は何時までも若い。
人生ですばらしいことは知性を若く保つことにある。」

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Henry Ford フォード・モーター創設者 のことば ---



 今の日本では防空壕に逃げ込むことなど考えられないが、危機に直面することはある。
教訓となる心構えがここにある。
いつでも、どこにいても、未来は誰にもわからない。何が幸いするかも本当はわからない。
どんな時も絶望せずに、あきらめずに、新たな道を模索し、前進することこそが大切だ。



補足: 1945年6月の空襲により、静岡市の市民約2000人が犠牲になった。

衝突からB‐29爆撃機が落下し搭乗員20名以上が亡くなった。

静岡市の浅間神社山頂ではこの時の日米合同慰霊祭が行われている。