幸せを理解すること ・・・ 幸せでいられる秘訣

人間が生きていくための必要最低条件として、空気、水、食料、住まい、衣類などは欠かせない。

空気がなければあっという間に人間は死ぬのに、空気に対する認識はほとんどないのが実情だ。しかし、認識があってもなくても空気が重要であるという事実は変わらない。

水がなければ人間は生きていくことはできないが、水も十分あれば、水に対する認識はほとんどなくなる。しかし、水に対する認識があってもなくても水が重要であるという事実は変わらない。

これは、人が幸せを認識してもしなくても、人が幸せであるという事実は変わらないのに似ている。

戦争が行われている地域・紛争の地域では、絶えず自分が殺される危険、家族が巻き込まれる危険があり、落ち着くことができない。平和と安全がなければ将来に対する希望さえ持てないのが実情だ。その地域の人々にとって平和と安全こそが希望であり夢である。それが実現すれば幸せになれると確信している。 ・・・しかし、平和と安全が手に入れば、知らないうちに幸せとは思わなくなってしまう。まさに日本はそういう国ではないか。

食べ物も余るほどあれば、感謝の念も起きなくなる。かつて日本が貧しかったころ、腹いっぱい食べることができることが夢であり将来の希望であった。今でも貧しい国では十分食べることが夢であり希望であることだろう。日本もそうなれば幸せだと思っていた。

しかし今、我々日本人は自分たちの置かれている状況がいかに恵まれているかを忘れてしまっている。戦争・紛争に悩み、また食糧難に困る多くの人にとって、夢と希望が叶(かな)えられている憧れの国であるはずの日本に住んでいても、決して幸せだとは感じていない。それはなぜだろうか。

考えを伝える前に繰り返しておこう。基本的なことだ。
戦争・紛争の下では、また犯罪・事故にまきこまれるなら、家族に何かあれば、人は幸福ではいられない。しかしこの現実を即完全に変えることなどできない。我々の住んでいる世界が不安定なためである。また、生きていくための必要条件が満たされなくなると不安を感じ、幸せではいられなくなる。

幸せについて次のように述べた人もいる。
「人は、人生の目的が幸せだと思い込まない時だけ、幸せでいることができる。」
・・・George Orwell 

なぜだろう


人が永続する幸せを得ることが困難な理由


幸せとは何か。三省堂大辞林によると、幸福とは「不自由や不満もなく,心が満ち足りていること(さま)。しあわせ。」とある。

この言葉は一般的には夢、希望、願いが叶(かな)う時に幸せになれるという意味で多く使われている。心が満たされるのは多くの場合「夢、希望、願いが叶う」時だという意味があるからだ。

その人の願いや夢を叶えてあげることで幸せにすることは簡単かもしれない。もちろんその願いや夢によるのだが。しかし、問題はその後にある。多くの場合、願いや夢が叶うと幸せは終わってしまうからだ。

幸せが永続するためには、願いや夢そのものを吟味することが必要だ。
幸せであり続けるためには、叶った後の変化に耐えるだけの人間としての質が求められる。

映画にはハッピーエンドがあるが、人生にハッピーエンドはない。
なぜかというと、映画のハッピーエンドはそこで終わり、続きを見せないからである。しかし、人生には続きがある。幸せは一時的になれても、その後の時間の中で問題が起き、幸せを実感していられなくなり、幸せであることを忘れてしまう。

余談だが、もし人生にハッピーエンドがあるとすれば、死ぬ際に「自分は充実した人生を送れた。幸せだった。皆に感謝している。」と思えることだ。しかし、事故などでも多くの人は亡くなる。普段からそういう心の状態を保っているなら、ハッピーエンドも有りかもしれない。

考えてみてください。幸せになったはずのカップルの三分の一近くは離婚に終わっている。
幸せになるはずだった。確かに幸せだった。しかし、幸せは長くは続がなかった。もちろん、離婚が幸せであるためということもある。


幸せが長続きしない理由は少なくとも二つある。

一つは自分自身。人間本来持っている本性の問題。
今から2000年以上前に次のように書いた人がいた。
「目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。」と。
個人的につけ加えるなら、
「口は食べることに飽きることがなく、欲は満足することを知らない。」と。

美しいと感動した花でさえ、見続けたらその感動を持続することはできない。
写真、映像、自然の美しさはいつも見ていれば飽きてしまう。忘れてしまう。
音楽も同じ曲を聞いていれば飽きてしまう。
食べるものも同じものでは飽きてしまう。
絶えず新しいものを求めることが人間の本性の一面なのである。

つまり人間はそのままの状態では満足するようには作られていないと考えられる。
幸せになっても、その状態(感性)は長く続かない。
言い換えると、その状態を感じ続けることができず、認識できなくなってしまうからだ。
しかし、幸せが終わってしまったわけではない。本当は幸せでも、実感できないだけなのだ。だから幸せではないと思い込んでしまう。

もう一つは「時間と共にすべては変化していくこと」だ。
同じ状況にいることはできない。永続する安定は存在しない。

生きている間は絶えず変化があり、今まで通りの生き方、生活をしていても、必ず変化を強いられる。時代の変化と共に文化、教育、常識、学問、ことば、生活様式、パソコンや電話など社会環境そのものが変わっていく。どんなに大きな影響を持っている人でも死ぬ定めからは逃れられない。大きな変化である。世代が変わって行く。これは避けられない現実。

そんな中で特定のものは変わらないもの、変わってはいけないものとして、変えないよう努力をし、守ろうとする人々がいる。しかし、変化を止めることはできない。自然界も人間の作ったものもすべては変わっていく。これは善悪の問題ではなく単に現実であるというだけだ。

人は不完全であり、死ぬべき定めにあるが、今までずっと進歩し続けてきた。数千年の間に素晴らしい進歩を示してきた。それが変化だ。

その変化ゆえに幸せが耐えられなくなる場合は多い。幸せな家庭に子供が生まれれば、母親のその世話は途方もなく大きい。子供は成長し、やがて言うことを聞かなくなる。反抗的になり、ついには対等に言い争うようになる。病気や事故に遭うこともある。父親は収入を得るため、社会の荒波の中で勝ち残るための闘いをし続ける。妻は働く夫に対して感謝もしなくなる。粗大ゴミのように扱われる場合もある。

確かに現実である。時と共に変化してゆくのである。その変化に対応することがすべての人に課せられている。そして、不満を言うようになり、諦めてしまう場合もある。

しかし、その中で幸せを感じ、進歩することはできる。子供の成長を喜び、夫に感謝することもできる。そしてより大きな幸せを経験することもできるのである。それは、変化に対して対応する人の働きと適応能力が関係する。


以上の幸せが永続しない主に二つの理由を述べた。しかし本当の大切な点はこれからだ。


目が見えず、耳は聞こえず、話すこともできなかった人、その三重苦を受け入れたヘレン・ケラーはつぎのように書いている。
「すべてのことに、光がなく音がない世界でも、それぞれの不思議があり、私はどのような状況にいようと、そこに満足することを学ぶ。」

一般に幸せを感じられない理由をここから明白に理解することができる。
幸せを感じるかどうかはその人の置かれている状況ではない。
三重苦を受け入れている人が「幸せはその人の心、認識の問題である」と明らかにしているからだ。
幸せであることを認識できるかどうかがカギなのだ。

あなたは幸せですか・・・
今幸せでなくて、いつ幸せになるのですか。

「あなたは幸せであるはずです」と言われて考えてみる。・・・確かに幸せかもしれない。
そこで時間を作り、もっとよく考えてみる。
現状に対する認識、バランスの取れた思考により、自分が実は幸せであるかもしれないことに気づく。

忙しく考えている暇もなく、嫌なことばかり、悪い面ばかり見ているから、それが大きくなって、幸せであることを忘れてしまう。気づかなくなっているのだと。

悪い面ばかり見るようになり、色眼鏡で物事を見るかのように、真実の世界が見えなくなってしまう。
そこで色眼鏡を外し、よく見てみる。すると見えてくるものがある。
よく見れば、また見方を変えれば、幸せである理由はたくさんあることに気が付いてくる。

確かに悲しいこともあり、つらいこともあるが、楽しいこともたくさんある。

家族がいるだけでも十分に幸せな理由になる。
生きているだけも十分に幸せな理由になる。
食べることができ、平和な世界にいるだけで十分すぎるほど幸せなはずだ。
目が見え、耳が聞こえ、話もできる・・・こんなに幸せなことはない。
足で歩ける。なんて幸せなことだろう。

人は失ってみないと、ありがたさがわからない。幸せであることに気付かない。
人間は何と情けない、愚かな存在なのだろう。

幸せであることの認識はもっと大きな幸せをもたらす。
いつも幸せです。昨日も、今日も、明日も。これからずっと。

感覚的に幸せを感じることができなくても、
考えてみれば幸せであるはずの理由がたくさん見つかる。

不幸な理由もあげれば、たくさん不幸の理由を上げることもできる。
でも幸せでありたいなら、その習慣は止めましょう。

幸せでありたいなら、楽観的、積極的な生き方をしましょう。、
今という現実しかないのですから。



補足1: 幸福であれば人は進歩しなくなるのか、について。 

幸せには感情的に感じる面と、知的に理解する面の二つがある。
進歩することと幸福の満足度との関係には相反する面があるように見える。
満足しきっていたら、不足するものはなく、問題意識も起こらないだろう。
そして問題意識がなければ進歩することも難しくなる。

では、幸福であれば人間は進歩しなくなるのか。

確かにそういう一面はある。しかし、すでに述べたように幸福であるという感情は同じ状況にすぐに飽きる。また、わからなくなってしまう。同時に現実という変化にも向き合わなければならない。

変化があるおかげで、人間には感情的に持続的な幸福(満足)を得ることができない。
それ故、進歩することができる。このようにうまくバランスが取れているように思える。

進歩することが人類すべての人の幸せのためであると願う。



補足2: 「三重苦を乗り越えた」という表現について

ヘレンケラーは「三重苦を乗り越えた」奇跡の人として知られている。

自分もこの「三重苦を乗り越えた」という表現を使っていたのだが、違和感を感じて「三重苦を受け入れた」人に直した。これなら問題はないと思えたからだ。

ところが、問題はなくてもヘレンケラーは三重苦を「受け入れていたのだろうか」という疑問がわいた。

ヘレンケラーは三重苦を感じていたのだろうかと。
恐らく健常者との違いを理解してはいたが、それを苦しみと感じてはいなかったのではないかと。

三重苦という表現は健常者の立場から見た苦しみのことであり、当人から見たものではないのではないかと思えるからだ。

健常者であれば「耳が聞こえなくなる」だけでも、大変な苦痛だ。「話すこともできなくなれば」大変な苦痛である。「目が見えなく」なるなら大変な苦痛を超えて生きていくことさえつらくなるだろう。これを乗り越えるには想像を超える心の葛藤があるだろう。

しかし、幼少のころからこうした障害を持っていた人は、その苦悩を知ることはできても、健常者のそれとは違うように思える。

以下の質問は失礼にあたると思われるのですることはないとして、
幼少の頃より目の不自由な人に、目が見えなくて苦痛ですかと質問したらなんと答えるのだろうか。
耳の聞こえない人に 苦痛ですかと質問したらなんと答えるだろうか。
話のできない人に、苦痛ですかと質問したらなんと答えるだろうか。

推測に過ぎないが、健常者がその能力を失った時に感じる衝撃や苦痛は無いように思える。

ヘレンケラーが三重苦を乗り越えた奇跡の人ということに間違いはない。ただこの表現は健常者が作ったことばだろう。ヘレンケラーは自分に起きた現実をそのまま受け入れ、健常者に負けない素晴らしい能力を発揮することができた。それは人間としての素晴らしい模範である。

マイケル アレフ


補足3:全国盲人テニス大会での経験

「今からおよそ20年も前になりますが」と前置きして、以下の話をしてくれた人がいた。

 大学1年生の時、先輩に誘われて知的障害者のところへ劇や紙芝居等をしに行くというボランティアをしていた。

ある時、盲人のテニスのボランティアに行く機会があった。所沢リハビリセンター(体育館)で全国盲人テニス大会の試合があった時のことだ。盲人がどうやって試合をするのだろうと不思議に思った。

参加者は約4つのチーム、20名ほどだったと思う。

ボランティアの内容はテニスボールの玉拾い。スポンジでできたボールの中に鈴が入っているものを使っての試合で、全盲の部と弱視の部に分かれていた。 健常者と比べたら試合とはとても言えないものだった。 

 ボランティアには筑波大学付属盲聾学校・高校の生徒二人も来ていて気軽に話す機会があった。若かったせいか自分の疑問をそのままぶつけて聞いた。

 「筑波大だから頭がいいんでしょうね」、すると「目が見えないから入学できた」と答えが返ってきた。

「目が見えないと大変でしょう」という質問もした。すると「もともと目は見えないから、見えることはわからない」という返事だった。

「どうやってここまできたのですか」に対しては「点字ブロックを歩いてきた。」と考えてもみないことだったが、あたり前のように答えてくれた。

 盲人でありながらテニスのうまい人がいた。「あの人は見えているんじゃないか」と高校生の一人が言った。「見えてるのに『見えない』って言うの?」という私の質問に、「そういう人はいる」という答えだった。全盲の人は全然ボールに当たっていなかった。 

会話の中で「夢は見るの」と質問した。彼は「夢は見る」と答えたが、その夢を理解することはできなかった。健常者の見る夢と違うようだった。 

 この時の出来事と会話は強く印象に残った。